ゼロから酒蔵を復活させた9代目 「敷嶋」の歩みとこれから~SAKETOMO的酒蔵見学・愛知編③~

日本酒ファンの間でじわじわと人気を呼んでいる「敷嶋」。知多半島の港町・亀崎(愛知県半田市)にて江戸後期に創業した歴史のある酒蔵、伊東株式会社が造るお酒です。

大正時代には名古屋国税局管内にて最大規模の酒蔵であった伊東(当時は伊東合資会社)ですが、2000年に廃業を決断。酒造免許を返納します。しかしその後、伊東家9代目となる伊東優さん(現 伊東株式会社 代表取締役社長)が「もう一度営みとして酒造りを戻す」と決心。返納から21年を経た2021年冬に酒造免許を再取得し、再び亀崎での酒造りが始まりました。

そこで今回は、「敷嶋」を復活させた伊東家9代目の伊東優さんに復活までの道のりと酒造りへの想い、また4月に開催されるイベント「亀崎酒蔵祭」についてお話を伺いました。

  • 伊東さんの写真

    「敷嶋」を復活させた伊東家9代目・伊東株式会社代表取締役社長 伊東優さん

<今回取材した酒蔵>

「敷嶋」伊東株式会社(愛知県半田市)

目次

知多・亀崎から全国に名を響かせていた銘酒「敷嶋」

海運の重要な拠点として栄えていた知多半島・亀崎で伊東家が酒造りをはじめたのは江戸時代の後期にあたる天明8年(1788年)のこと。以来、200年以上の長きにわたり亀崎の地で酒造りを行ってきました。現在にも残る昔の酒蔵の建物や敷地からも、往時の規模を伺うことができます。

伊東さん

「敷嶋」という名前は、当時江戸で人気だった本居宣長の句「しき嶋の やまとごころを 人とはば朝日ににほふ 山ざくら花」から採ったもので、「やまと(大和)」にかかる枕詞です。江戸で酒を売るために、当時江戸で大人気だった本居宣長の句の一節から名付けられたそうです。1800年代終盤から1900年代初頭にはパリ万博をはじめとした海外の博覧会などへも出品し様々な賞を獲得するなど高く評価を受けていました。今でも年配の方には「敷嶋」のブランドを懐かしく思って頂ける方もいらっしゃいます。

  • 日栄博覧会で金賞を獲得した賞状の写真

    旧事務所には1910年にロンドンで開催された日英博覧会で金賞を獲得した際の賞状が残る

伊東さん

愛知はもともと酒造りが盛んな地で、その中でも海運の拠点となっていた知多半島、特に亀崎周辺には多くの酒蔵がありました。当時の一大ブランドだった灘(兵庫県)や伏見(京都府)に比べると、知多は江戸までの距離が近いため、品質を保ったまま酒を安全に運ぶことが出来ました。また、江戸での需給の状況もいち早く知ることができるため、江戸でお酒が足りない時にいち早く供給できたという側面もあります。一説によると江戸市中で消費される酒の3割は知多半島の酒だったとも言われています。

しかし、明治時代になると政府による酒税の強化や、鉄道網が整備されたことで知多半島の酒造りを取り巻く環境が厳しくなっていきます。それに対抗するために酒造りを行っていた伊東家の親族が集まり、明治41年「伊東合資会社」を設立します。その後事業規模を拡大し、大正12年には東海4県に長野県と新潟県を加えた当時の名古屋国税局管内で、最も大きな規模を誇る酒蔵になりました。

  • 伊東合資会社の全景図

    往時の「敷嶋」伊東合資会社を描いた全景図。規模の大きさが窺える

しかし、昭和後期から平成にかけて日本酒の需要が低迷。経営環境が厳しさを増す中、8代目にあたる伊東さんの父が200年以上続いてきた酒造事業を閉じる決断を下します。

伊東さん

父が蔵を畳む決断をしたときにはまだ中学生でした。亀崎ではなく名古屋で生活していたため当時のことはあまり覚えていません。祖父母の家に来る感覚でこちらに来ることはありましたが、子供は酒蔵へ立ち入ることができなかったので身近なものではありませんでした。

その後一橋大学経済学部へと進学し、卒業後にはNTTドコモに就職した伊東さん。しかし、2014年祖父の死をきっかけに酒造りの再興を目指し始めます。

伊東さん

寝ずの番をした時に飲んだ「敷嶋 純」が美味しかったんです。14年以上前に作られたお酒なのでいわゆる古酒になるのですが、骨格がしっかり残っていて、とても美味しかったのです。

自分にとって初めての身内の死は「生きるってなんだろう?」ということを考えるきっかけになりました。長男なので「家を継ぐ」ように言われてきたのですが、継ぐと言っても家業は畳んでいたので、「継ぐ」とは何だろうかと考えました。その中でこれは残したいと思ったのが、伊東家が代々暮らしていた古い家だったのです。家というのは「営み」があってこそなので、50年100年と家を残していくためには、酒造りという営みも戻さなければいけないと考えました。もちろん、日本酒が昔から好きでずっと飲んでいたというのもあります。

  • 「敷嶋 純」の箱の画像

    旧社屋に残る「敷嶋 純」の箱。かつて作られていたこのお酒が「敷嶋」再興のきっかけとなる。

「敷嶋」一歩目までの復活の道のりは苦難の連続!

「かつての営みを取戻したい」という伊東さんの強い思いから始まった「敷嶋」再興。とはいえ、廃業から14年という年月が経ち、酒造免許も既に返納されているという全くのゼロの状態からの取り組みになります。リスタートに向けて足を踏み出した後も、数々のハードルがありました。

「敷嶋」を復活させようと考えた際、伊東さんが大事にしようと考えていたことは何でしょうか?

伊東さん

「地域」、つまり地元を大事にしようと考えていました。周囲の方から話を聞けば聞くほど、地元で愛されてきた酒蔵だったとわかったのです。だからこそ、ここを裏切るようなことやり方はしたくないなと思っていました。

また、「人」についても同じです。いろんな人たちの支えがなければ酒造免許の再取得も実現できていません。助けてくれた方たちの思いを裏切ることはしたくないですし、期待に応えたいと思っています。

酒造りを再興しようと決めた時、酒蔵や設備などは残っていたのでしょうか?

伊東さん

土地や建物は半分以上売却しており、設備も全て売り払っていました。そのため、酒造りを再開するにあたり工場と酒蔵の一部を買い戻しました。

実は2020年の春頃に「酒蔵の土地建物を買い戻さないか?」という話を頂いたのですが、資金が必要な話ですし、とても無理だと思っていました。ところが、3ヶ月ぐらい経ち、大正時代から縁があった仙台の会社が所有する不動産を買いたいという人が現れ、まだ残っていた借入金返済と、昔の土地建物を買い戻す資金を確保することが出来ました。巡り合わせと言う面もありますが、買い戻すことが出来たのはご先祖様に感謝です。

  • 製造工場の外観

    現在の製造場も旧酒蔵とともに買い戻したもの。設備は新たに導入。

日本酒造りはいつ頃からどのように学んでいったのでしょうか?

伊東さん

酒造りを再興させようと決めた時にはまだNTTドコモに在職中でしたので、本を読むところから勉強を始めました。その後、有休を使いながら伝手があった山形県の鯉川酒造さんで初めて酒造りを体験させていただきました。

2018年6月に退職した後、愛知県津島市にある長珍酒造で酒造りに携わりました。それから、「委託醸造」という仕組みで日本酒を造る取り組みを知り、酒屋さんが主催する飲み会で知り合った福持酒造場の羽根清治郎さんのご協力を得て、造りの現場に入りながら委託醸造という形で最初の酒造りに取り組みました。そうして出来たのが「敷嶋 0歩目」です。

「1歩目」ではなく「0歩目」と名付けたのは何故でしょうか?

伊東さん

「0を1にする」という決意、そして「亀崎での酒造りを1歩目としたい」という思いを合わせて「0歩目」としました。また、会社員時代に当時の上司から「0を1にするのは苦手だねぇ」とよく言われていたので「0歩目」としたというのもあります(笑)

自分が主体となって造った初めてのお酒である「0歩目」が出来上がったとき、どのような思いを感じましたか?

伊東さん

 出来上がったときには実感は湧きませんでしたが、高校の先輩から電話で「美味い!」と言われた時に初めて良かったと思えました。とはいえ、まだ羽根さんにおんぶにだっこという部分が大きかったので、手応えというよりはほっとしたという気持ちが強かったです。

出来上がったお酒の味はご自身としてはいかがでしたか?

伊東さん

味に関しては「美味しいな」と思いました。羽根さんのおかげです。

羽根さんも本当に真剣に考えてくださいました。羽根さんから言われたのは「まず酒にならないと話が始まらない」ということです。羽根さんとしてもやると決めて預かった以上、商品にすることが大事だと考えてくれていました。そのおかげで色んな人に美味しいと言ってもらえるようなお酒、「商品としてのお酒」になりました。

「0歩目」はタンク1本、「半歩目」はタンク2本仕込みました。「半歩目」はかなり甘めになったのですが、アルコール度数は18度を超えており「甘くて力強いお酒」になり、これはこれで美味しいと思っていただける方も多かったです。

酒造りを本格再開されるにあたっての大きな課題となるのが「酒類製造免許(酒販酒造免許)」。日本酒の酒造免許は原則として新規交付が行われていませんが、どのように再取得されたのでしょうか?

伊東さん

「0歩目」を造った後、SNSを見たぽんしゅ家さんという日本酒好きの間で有名な東京の飲食店さんから問合せを頂いて、初めて東京に出荷しました。それがご縁となってインスタグラマーのいとみゆさんをはじめ様々な形で日本酒に関わっている方々に飲んで頂くことができ、ついには酒造免許を譲ってくれそうな方と繋がることができました。

その話を繋いでくれた方とはお会いしたばかりだったのですが、ある日電話がかかってきて「伊東さん、いま酒造免許を譲ってくれそうな酒蔵さんに来ているのですが、いくらまでなら出せますか?」といきなり聞かれたのです(笑) 正直ドキドキした部分もありましたが、会ったときの印象で信頼出来る人だと感じたので話を進めて頂きました。

実はこの時、「半歩目」の仕込みを行っている最中で、福持酒造場まで往復4時間かけて通いながら同時並行して進めていました。プライベートではちょうど第一子が生まれたタイミングで、本当に息つく暇がないほどのめまぐるしい日々でした。

もう一つハードルになったのが保健所の検査です。酒造免許の移転は保健所の検査に合格しないと完了しない仕組みになっているため、免許の移転よりも先に設備を確保する必要がありました。コロナ禍が始まったタイミングだったこともあり、保健所の検査も念入りでかなり時間がかかりました。

必要な設備を手配して保健所の検査が終了したのが2021年11月30日。それを受けて最終的に免許の移転が完了したのが2021年12月1日になります。振り返って見るとかなり前のめりで進めてましたが、偶然にも恵まれ、良いタイミングで酒造免許の再取得ができました。

  • サーマルタンク

    2021年12月より亀崎での醸造が復活した「敷嶋」。取材日にも細かな温度管理が可能なサーマルタンク内で醸造の真っ最中

21年の時を経て亀崎で復活した「敷嶋」 1歩目から、さらにその先へ

酒造免許を再取得し21年振りに亀崎の地で復活した「敷嶋」ですが、最初に出荷したのはいつになりますか?

伊東さん

2022年2月に出荷した「1歩目」が最初です。うちの日本酒の特徴として絞ったばかりではまだ硬さがあってお酒が開いていないということもあり、少し寝かせてから2月に出荷しました。

現在はどのような酒造りを行っていらっしゃいますか?

伊東さん

米の特徴を生かしながらも甘だれせずにしっかりキレがあるお酒を目指しており、米をしっかり溶かす造りを行っています。米の味わいや酸に加えて良い意味での苦味や渋味があり、次のお酒、次のごはんへと続いていくような味わいになっています。 

仕込み水は昔から使っている井戸水を使っています。海に近いこともあり、わずかですがミネラル分を感じるような水で、これが「敷嶋」ならではの苦味や渋味のアクセントに繋がっているのではないかと考えています。

酒米は今は山田錦が主ですが、愛知の夢山水や夢吟香も使っています。他には最初に酒造りに触れた山形のお米である出羽燦々や、早生の品種であり新酒を早めに出せる五百万石も使っています。山田錦については基本的には「味の良いもの」を使おうと考えていますが、もし将来的に愛知産で品質が良い山田錦があれば使いたいと思っています。夢吟香については地元の農家さんと契約して増やしていく方向で進めています。

「敷嶋」は食中酒として楽しんでもらうお酒を目指しているので、あまり高級酒すぎないお酒にしたいと考えています。

  • 酒瓶の写真

    事務所入り口並ぶ「敷嶋」の酒瓶

「敷嶋」の復活にあたり、ラベルデザインを新しく見直されていますが、このデザインにはどのような思いを込められているのでしょうか?

伊東さん

会社員時代に出席したセミナーがご縁で知り合った田坂州代さんという書家の方に書いていただきました。 

「酒づくりは水が大事」という点と「酒造りという伊東家の源流に戻る」というところから川の流れをイメージしています。最後に「嶋」がふわっと広がっているのは末広がりを表しています。 

以前の「敷嶋」にはラベルに必ず桜のデザインが使われていたので、現在のラベルにも「敷嶋」の文字の横に桜をあしらっています。古くもあり、新しくもあるデザインです。

  • 桜のデザインをあしらった瓶の写真

    旧デザイン(左)にもあしらわれていた桜のデザインを新デザインにも踏襲。

蔵元としては「敷嶋」はどのような飲み方で楽しんで欲しいと考えていますか?

伊東さん

「冷やしすぎない」で飲んでいただきたいです。少しずつ飲み進めるとだんだん味がほどけてまろやかになるお酒なのですが、冷やしすぎると開きにくくなってしまうのです。冷酒として飲む場合にも10度以上ぐらいからがおすすめです。「常温がいい」とおっしゃる方も多いです。

「敷嶋」は開けてしばらく置いてから本領を発揮します。生酒でも、ぜひ抜栓してから長く楽しんで欲しいと思っています。

燗酒にも向いていますが、中途半端な温度だとアルコール感が強くなってしまうので、燗につけるなら思い切って高めの温度にするのがおすすめです。燗つけ師さんは70度ぐらいでつけていることが多いですし、お酒を開かせるためにデキャンティングを2回やってから燗につけるということもやっていらっしゃいます。

いろんな楽しみ方ができる「敷嶋」ですが、料理やおつまみはどのようなものがと相性が良いでしょうか?

伊東さん

実は「敷嶋」は仕込み水の関係もあってお酒自体にスパイス感があると言われていますので、スパイスを効かせた料理との相性が良いです。「カレーに合う日本酒」としてユーチューバーさんが選んでくれたこともあります。

また、王道で言うと、塩気があるので干物など海のものとの相性が良いです。後は使っている酒米で味わいの性格が大きく異なります。例えば、五百万石のうすにごりは苦味や渋味が少し強めなので肉系の料理との相性が良いですし、透明感のある旨味が特徴となる夢山水のお酒は和食の料理人さんから支持が高いです。うるかのような川魚の苦味があるおつまみとも相性が良いです。

ズバリ、蔵元として「敷嶋」に合わせて欲しいオススメのおつまみを教えてください!

伊東さん

やはり干物ですね。本当は亀崎の名産である「串あさり」を合わせてほしいのですが、大きなあさりが最近取れずなかなか手に入らないのです。比較的手に入りやすいものでは「タイラ貝の干物」がオススメです。タイラ貝の干物と、抜栓して1週間ぐらい置いた山田錦の9号酵母の「敷嶋」を合わせて頂くと美味しいです。

  • 旧酒蔵の修繕・改装写真

    「亀崎酒蔵祭」の会場は創業時から使われてきた旧酒蔵。現在修繕・改装が急ピッチで行われている。

100年後200年後の未来を見据えた「敷嶋」再興にかける想い

2000年に一度幕を下ろした「敷嶋」。20年以上の時を経て9代目が再興の1歩目を踏み出しました。「せっかく復活させた以上、100年後200年後も残る蔵にしたい」と話す伊東さん。「流行りに流されず、自分たちが美味いと思う酒」を造っていくことが地域の人たちやお世話になった人たちへの恩返しに繋がると考え、酒造りに取り組んでいます。

インタビューの中で伊東さんが繰り返し話されたていたのが「期待を裏切らない」という言葉。その言葉に、再興にあたって数々の人たちの思いをしっかり受け止めて酒造りに挑む伊東さんの真摯な心が伝わってきました。

  • 伊東合資会社の外観

    再興の1歩目を踏み出した「敷嶋」。100年200年先の未来を見据えた取り組みが今後も続きます。

「敷嶋」をもっと知りたい人のための直売所・酒蔵見学・イベント情報

直売所 現在は無し。将来的には設けたいとのこと。

酒蔵見学 一般見学は受け付けていない。イベント開催時も製造場内には見学不可。

イベント 2023年4月8日(土)に蔵開きイベント「亀崎酒蔵祭」を開催。

イベントの詳細はWebサイトにてご確認ください。

伊東さん

過去のことは確かではないのですが、おそらく初めての蔵開きになるのではないかと思います。「亀崎酒蔵祭」は、亀崎にこうした歴史を持つ建物があるんだということを知ってもらいたくて、開催を決めました。買い戻した酒蔵は非常に大きな木造建築物であり、全国にも稀少なものです。そこを多くの方々が来る場所にして価値を高めたいと思っています。その第一歩としてイベントを企画しました。イベントでは、米農家さんや酒造りへの理解が深まるトークショーや、地元の老舗料亭や名古屋の飲食店によるフードなどが楽しめます。ぜひ家族連れでお越しください。

また、亀崎にいらっしゃったらぜひ街歩きをして欲しいです。醸造業を中心とした古い街並みや「せこみち」とよばれる細い路地、街のいたるところに地蔵がたくさんあったりと見どころがたくさんあります。

「敷嶋」が買えるお店

Webサイトに掲載している特約店リストにてご確認ください。

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